永住の地を探して

現代日本の生活に嫌気がさした39歳(男)が何も決めずに勢いで日本を飛び出したけど戻ってきたぞ!俺に安息の地はあるのか!?

勘繰る

かんぐ‐る
勘繰る
  1. 《五他》
    気をまわしてあれこれと邪推する。
     
    ということ。
    誰にでもある。邪推してしまうことが問題だ。
     
    これってみんなどうやって解決して、向き合っているのだろうか?
    とても気になる。
    気にしないようにいなしているのか。
    勘繰るところまで勘繰って、そこから解決の糸口を見つけるのか。
    勘繰りだと気づいて、思考をニュートラルに戻したり。
     
    ここ数年あまり望んでない別れを繰り返して(時に自ら)、プラス思考かつ思ったことは正直に言うようになっていた性格が、いつの間にかネガティブさんになっていた。
    気づかなかった。
     
     
    そこでわかりました。
    はっきり言えない人、自分がはっきり言えないモードになっているかの判別方法。
    ※そんなの判別しなくても自分でわかってると言う人は読み飛ばしてください。
     
    「あの人、なんであんな事言ったんだろう?」と考えた時点ではっきり言えてないですので、考えた時点で、何かしらの言葉で伝えましょう(笑)
     
    相手の考えている事は(本当の意味では)わからない。
    この根本的な事すら忘れていました。
    もちろん、わかろうとする事は大事だけどね。
     
    考えて(調べて)わからない事は聞くしかないよねって事で。
    物事に関しても結果が出るまでわからない事はわからないんだ。
    もちろん対策や対応は大切だ。
     
    改めて、わからない事を考えてもわからない。
    これを肝に銘じようと思う。

チャートに釘付け

永住の地を探す為の資金をなんとかしようとしています。

一度海外へ渡航したのに戻ってきて資金作り、2歩進んで3歩下がった気持ちです。

 

資金を作るための数ある作戦のうちの1つ、投資もガンガンやってみよう!って事で、

いつの間にか金のブログになりつつある今日この頃。

 

先日、億万長者の気分で仮想通貨を購入した日からの事をまとめてみる。

まず購入についてだが、1週間後ぐらいを目処に値段が上がって売れれば良いなと予想しとある通貨を購入。

その後チャートを1時間以上眺めていたと思う。

そこで気づく。

 

チャートを見ていても値段が思い通りに動くわけでは無い。

そして、すぐ売るわけでは無いのにチャートから目が離せないのは何故だ?

 

俺は遅めの夕飯を作り始める。

食後にコーヒーとタバコをやりながら再びチャートを表示する。

 

上がっている。5%くらい上がっている。

資産が増えている。

チャートは青い分足が、今だ今だ!と上へ上へグイグイと伸びようとしている。

時折短い赤いロウソクが現れるが微調整と言わんばかりにグイグイ、グイグイググイ。

気づくと3時間近くが経っていた。

ただ見ていた。ようだ。

 

いやいやいやいや、ちょっと見すぎたなと、何もする事が無いのにパソコンの前で停止していた。

もう良い時間だから明日の爆上げを楽しみに今夜は寝よう。それがいい。そうしよう。

歯を磨いて布団も温めて。

寝る前にちょっとだけ、

 

寝る前にちょっとだけチャート見て、携帯なら一瞬で見て終われると思うし、チラッと見て明日の価格の予想しながら寝よう。そうしよう。

爆上げ。

初心者的になんとなくなんだけど、上がりすぎなんじゃ無い?と思えるぐらいグイグイ来てる。

他の通貨を見たり、拙い知識をフル動員して今後の予想をたて始める。

ちゃんと見るならパソコンだよな。ちょうど寝床の横にあるし、ちょっとだけ起動しよう。

 

気づけば午前様。新聞配達のカブの音が聞こえる。

もう5時かぁ、、、、。

取引的な行動は全くせずに6時間近くチャートを睨みつけていたようだ。

※そもそも数日後に売るつもりなのでデイトレするつもりは無い

その間に調べごともしたりするんだけど、気づくんだ。

チャートを見ていても値段が思い通りになるわけでは無い。

ああ、なんて無駄?な時間(合計10時間ほど)を過ごしたのか。

 

しかし初心者的にはひたすらチャートを見るというのも勉強になるんじゃ無いか?という優しいもう一人の俺に励まされながら、うっすら明るくなってきた障子を眺め、就寝。

 

翌日昼過ぎに起床し、パソコンを起動。

しっかりと底を作りながら上がっている。よし。

 

二日目も、チャートに釘付け→それ意味無いじゃんの気づきループ。

本当にまじで俺何やってんの?って。

二日目はそこから考え始めた。

俺は何をやっているのか?

言い換えるなら何故チャートに釘付けになっているのか?という事だ。

そして気づいた。

結局、暴落が怖くてチャートを眺めてしまうんだと。

いつ落ちるのかがわからないからひたすら猿のように見てしまう。

俺は猿や。

そして考える猿や。

猿なりに必死で考えたら人間の考えに到達するんや!するはずなんや!

二日目にして悟る。チャート中毒からの解脱。恐怖の克服。依存症からの回復。

そして二日目の深夜、遂に天啓が舞い降りた。

 

指値

 

こ れ だ !

これだったんだ!

これを使えば良かったんだ!

一定の値段になったら売ったり買ったりしてくれるという、この素晴らしいシステムを使えばチャートをずっと見ていなくてもいいんだぞ!

これさえ使えば、、、

 

収支

指値習得

ー睡眠時間

 

億万長者の気分(刹那的)

投資、そして投機と言うものに触れ4日が経った。

 

証券会社や取引所に口座を作ってお金を振り込めばすぐに始められる。

楽天銀行などは判子がなくても口座ができてしまう。時代は進んでいる。

 

俺も進んでいる。

口座を作り、はした金をぶち込んだ。さあ始まるぜ。

YouTubeや書籍にある1万円から始める投資、50万円から1億円にする方法、みたいな、そんな気分である。

 

よっしゃ、やるぜ!と。やってやんだぜ!と、

はした金を入金しただけで億万長者の気分なのである。

 

これはでかい。でかいね。

今の所、全く物理的な利益は無いけど、すこぶる気分的が良い。

(投資を)やってやる!が、いつの間にか

(口座を作って)やったぜ!と簡単に混ざってしまう。

そして()内はいつの間にか忘れ去られ「やったぜ!」だけが意識を支配する。

手段が目的に変わっている典型なのだ。が、

しかし、

梅雨時期に一日中どんよりとした曇り空だったけど、夕方頃には急に光が差し込んできて、夕焼けの前に一瞬だけ青空が見えた。

見ていた世界が一瞬で別世界に変わった。と、錯覚するほどの”別物感”。

夕焼けも淡い橙色で、雲も少し残り、何故かわから無いけど明日から頑張るぜ!と。

思えるあの感じを抱えながらトレードの世界へと一歩足を踏み入れたのだ。

きっと今投資や投機をしている諸先輩も通った道なのだろうかと、思いを偲ばせる事も期待感を煽る。

 

そして、俺は物質的な世界も好きだが、精神世界に興味があるので、この高揚感が何よりの好物。

何かに投機をする前にすでに精神的なリターンを得た。

 

 

いや、口座を開くという事が自分に対する精神的な投資であって、その達成感のリターンがこの高揚感、、、なのか?まぁどうでも良いのか?

初日の収支 +高揚感

 

そして、ついに仮想通貨を購入、、、。

ヨーロッパから戻って2ヶ月が経つ

2021/03/04

そこまでメンタルの変化は無いまま2ヶ月が経った。

イタリアのまささんから、レストランで外食出来るようになったと朗報も入った。

こちらはと言うと、永住の地を探す為に必要な金の稼ぎ方について勉強している。

危ない橋を渡らなければなんとかなると思っている。

つまり一か八かみたいな勝負は無し。

 

良く言われる事なのかもしれないが、金の稼ぎ方には3つある。

・物を売る(自分の時間を含む)

・人に働いてもらう

・金に働いてもらう(ギャンブル含む)

と言うわけで、今までは自分の時間を売って対価を得るアルバイトがわかりやすく、必要な分だけ稼げるので好んでいたけど、しばらく方向転換、と言うか二刀流を目指す。

 

投資と言うものにも立ち向かって今後の人生なんとかしましょうと言うわけです。

そんな投資の分析をブログに書いたところで専門家じゃ無いし、幾ら儲かったぜ!とか言いたいわけでは無いので、具体的な何かではなく、投資を初めた自分のメンタルの変化を書き綴れたらと思いますね。

 

ちなみにどの稼ぎ方が良いとか悪いとかは無いので悪しからず。

やりたい事と、やりたい事と出来る事との兼ね合いとか両立とか、そう言う部分なのかな。 

兎にも角にもとりあえずやってみる精神は時に大事なので、やってみよう!と言うわけです。

しかも投資は余剰資金でってわけで(しかも勉強中)500円からでも十分なわけですよ。

とりあえずやってみて、全部損しても痛く無い。そういう部分、やり方でやります。

 

と、言いながら、そもそもギャンブル的な事が好きな俺の精神がどこまで耐えられるか!?って事ですよ(笑)

無の人

24/01/2021

まさかのタイミングで人生初の出来事が起こった。

なんと、"無"を体験した。

自分の中に何も無い状態。あったものが無くなった状態。

不思議だったな。

 

おそらく2時間くらい無になっていた。

ゾーンとはまた違った状態。

その時一緒にいた友人が、

「何考えているのか全然わかねえ!こんなお前は初めて見た」(爆笑)と隣で騒いでいたが、こちらは完全に無だったので、声は耳に届いているけど、意識には入らずに消えていく。

言っている事も理解しているし覚えているけど、心や意識のどこにも引っかからない。

爆笑している人の隣に無の人が居て、とてもシュールだったはずだ。

 

意思を取り戻してから、なぜ無になったのか考えて、無のやり方のマニュアル化を試みた。

やり方も書いてしまおうと思っていたのだが、ふと冷静に考えるて、精神的に病んでるんじゃ無い?と思われるような事を書く事になりそうなので、とりあえず保留かな(笑)

ただ、方法を考えている途中で全く解らなかった”いたこ”のやり方への理解が進んだ。

 

「”イタコ”を試みる場合、呼び出したい人が使っていた物が必要になる」

という仮説が出来た。

他にも"イタコ初心者"(俺)が気をつけなければならない事をいくつか見つけた。

例えば、まずは身近な人をいたこってみる試すのがオススメ。

いたこる時の場所はある程度どこでも良い。

など、この時点で、このブログ書いてる人アッチ系か、、、と思われるレベルである。

数年前の俺に聞かせても、同じ事を思うだろう。

 

イタコの話はまたの機会に改めるとして、人生初めて無になり、無について今までよりも深く考察できた。

まず、今まで自分は無の境地が非常に良い状態だと思っていた。

それこそ悟りとか禅と似たニュアンスで捉えていた。事にも気づいた。

それぞれの意味を改めて調べてみた。

 

悟りー南無(帰名)

本来の穢れなき命に帰ること。

日常用語としては、理解すること、知ること、気づくこと、感づくこと。

 

禅ー禅那

心を静かにして動揺させない。

仏性の存在を前提に坐禅することをいう。

 

何もないこと。存在しないこと。

経験・知識を得る以前の純粋な意識(無の境地)

 

なるほどね。

無の境地は危険だと俺は思った。

理由は想像以上に無だから(笑)

少しの時間ならいいかも。

例えばドラゴンボール精神と時の部屋。あれが無に近いと思った。

初めて入った時に気が狂いそうになってすぐに部屋から出てきたと書いてあったけど、そういう感じ。

無って何もなさすぎて辛いんじゃ無いかな?と思った。

無の状態で精神と時の部屋に入ったとしたら、真っ白な空間にただひたすら居れて、それに対して苦痛どころか疑問すらも無く、やりたい事も無いからその場所で何をするわけでもなく立っているのか座っているのかわからないけど、ひたすら時間が流れるけど、時間が過ぎていく事にも何も感じないので死ぬまでそこに留まり続けるのだろう。

それってどーなの?(笑)

 

俺は無の状態でも体は自動で動いてくれて、何かが出来ないとか何かのやり方を忘れていると言うことは特になかった。

目の前の状況を確実に淡々とこなしていく。ただ自分が何をしているのか、とかその後どうするのか等の考えは存在しない。四肢が勝手に処理していく。

例えば、階段を登る。ではなくて、膝を高く上げないと目の前の段差が越えられないので膝を上げる。の繰り返しが結果的に階段を登っている事になる。といった感じだ。

実際には段差があるとは俺は認識してない(無だからね)目から入った情報を体が勝手に処理してくれている。

イジメで一番辛いのが無視っていう。まぁそう言う事なんだなと。

全く味のしない食べ物を食べ続けたら人は何を思うのだろうか。まぁそう言う事なのかなと。

※無の状態でも味はしていると思います。ただそこを気にしていないというか、興味が無いというか。無の状態なら全く味がしない物を食べても何も気にならないと思う。

 

一体俺は何を書いているのだろうか(笑)

 

まぁ強引にまとめると、行き過ぎた無は何も楽しく無いと言う事だ。

なんたって無感情だからね。喜怒哀楽全部無いし欲求も無い。

楽と言えば楽かもしれないけど、人生の楽しみがなくなるのは辛いと思ったし、無になったままだとしたら何故生きているのかが疑問になってしまう。

さらに今これを書いてて気づけたのだが、無を知ると有を知る。

感情ありがてぇ〜! みたいな(笑)

目的があるってスバラスィ〜! のように、"有る"事ってイイじゃん!って深く気づけた。

嫌な事は嫌だけど、全く何も無いよりはいいかもしんない!本当に嫌でも無よりは実感有るし生きてる間はしょうがないか!と少し強引だがプラス思考にも使える。

 

無から戻って来たのでこんな書き込みが出来てるわけだが、

俺の場合、戻るときは何かのタイミングで急に無って悲しいな。無は楽しくは無いかもしれない、むしろキツイかもしれないどころか、今俺それだ、、、。

と結構テンションが落ちた(笑)

そこで気づいた。

 

これ、虚無だ(爆笑)

 

虚無ったわー。マジ虚無ったわー。虚無は悲しいわー(笑)

イタコ→無→虚無→有のコンボ決めました。

よみがえる変態/星野源

23/01/2021

本屋と楽器屋が好きだ。

店内にいるだけで不思議な高揚感にみまわれ、欲しいものが無くても居座れる。

 

本は好きだが日常的に本を読んでいるわけでは無く、月に2〜4冊読む程度。

ただ、"読書の波"が来た時には日常に影響が出るほど読み続けてしまう。

久しぶりに日本の大きな本屋でテンション上がってしまい、読んだ事が無い作家の文庫を何冊か購入。

とりあえず読みやすそうな「よみがえる変態/星野源」を読み始めた。

連載していたコラムをまとめた文庫らしく、最初のコラムのタイトルが

 

おっぱい

 

だった。なんとまあ興味をそそられ読みやすそうなタイトルでは無いですか。

そんなわけで、おっぱいについて詳しくなっちゃうぜ!とアホ全開で読み進める。

要約すると、

死にたくなった時に「おっぱい揉みたい」と言葉に出すと少し幸せな気持ちになりますよ。

って事なんだが(星野源が言っているわけでは無い)。

 

うーん。

なんだかなぁ。

死にたくなった時に「おっぱい揉みたい」って言ったとして、実際に揉める相手が居なかったら余計に死にたくならないか?

と言う疑問が頭から離れなかった。

彼に言わせると、実際に揉まなくても大丈夫。声に出しただけで色々な事がどうでもよくなってくる。とのこと。

 

死にたいくらい絶望的な事があって死にたいのに「おっぱい揉みたい」って言葉に出したら、実際に揉めないと死にたくならないか?(笑)

絶望の中で自分にはおっぱい揉む相手も居ないのか。と余計絶望しないか?

星野さんは”おっぱい”と言う単語自体に癒しの能力が隠されているのでは無いか?と考えているようだが、俺にはあまりわからなかった。

言いたいことはもちろんスゲーわかるよ。

ただ、おっぱいと言う言葉では俺は無理(笑)

 

そんなわけで、なんだかなーと言う気分でおっぱいを6ページ読んで読むのをやめ、読んでない本ビルの最上階に置かせてもらった。

 

帰国後、仕事も無く時間があったので本屋には何度か足を運び、いつの間にか読んでない本ビルの高層化が進んでいた。

読まないと!って思えば思うほど読まなくなるのが人間で、余計に読書欲求が減っていった。

 

ビルがどれだけ高層化しようとも困らないけど、勿体無いなとは思っていた。

たまたま入った革製品屋さんでブックカバーなるものを見つけた。

本を読むときはカバーを外して装丁無しで読むのが好きなので、今までブックカバーなんて使わないし、邪魔でしょ!って考えだった。

帯なんて最初に捨てる。素敵な表紙が台無しだからだ。

ちなみに栞も使わない。

読んだら読んだところまで覚えてるはずなので必要ない気がするし、どこまで読んだのかをパラパラ探すのも少しだけ読み返ししつつになるので、思い出せるし内容の覚えも良い。

もちろん栞の意義もわかってるよ。ページめくって探すよりもちょっと早く目的のページがわかったり、栞の位置で今全体のどの辺り読んでるかわかるって事でしょ。それはわかってる。

今では推理、フィクションエンターテイメントはほぼ読まないので、本を読むと言うよりも自分の知識にすることに重きを置いているんだと自己分析。あとは読書は現実逃避の意味合いも俺にはある。読んでる間は本の事考えてれば良いからね。

 

ディスプレイされているブックカバーの中身は伊坂幸太郎、昔大好きだったな。

これって何かのタイミングなのか?

ブックカバーを買えば、カバーを使う為に本読むんじゃないのか?と考え、モスグリーンの牛革のブックカバーを購入。

 

買った事が無いものを買うのもたまには良いね。少しワクワクする。

そんなわけで早速よみがえる変態(以下、変態と略す)をブックカバーに差し込もうとするが、狭くて奥まで入らない。

そんなはずはない!俺がブックカバーへの本の入れ方知らないだけだ!と自分に言いきかせて変態を強引に押し込む。

なんとか入れようとするのだが表紙がグチャグチャ。

ふざけんな!ってマジで思ったね。

ブックカバーにしては高かったんだよ。本皮だし。なのにクオリティ低すぎ!

 

速攻で店に行って返品しますって。

店員が店にディスプレイされてる文庫で試して見るとすんなり入る。

ちなみに俺は積み本ビルの中からさらに2冊の本の表紙をグシャグシャにされているので、自信を持って言いました。

「おそらく、この伊坂幸太郎の文庫が小さいんだよ。」

中古本かはわからないけど、中古なら天と地と小口は削って綺麗にされているからサイスが小さくなる事は実際にあるんだと。力説してみた。

予想はしてたけど、信じてくれない。

そもそも変態を家に忘れて、入らないことを証明できてない俺も悪いんだけど、ね。

最終的に店員さんと本屋に行って確かめることになって、それでわかってもらえた。

 

気分的には2度とブックカバー買わん。

返品しますって言ったのに、なんとか交換で許してもらえないですか?的な押しに負けて、交換と相成りました。

自分でも意外なのだが、大事な事以外は押しに弱いんだ。

 

そんで、昨日やっとブックカバーが届いた。

実際もうどうでもよくて、本もしばらく読まねー。ぐらいになってたのだが、とりあえずグシャグシャの変態をぶち込んでみる。

流石に今度はすんなり入った。

ブックカバーに本が入ることに対して少しだけ嬉しくなってしまった。

当たり前の事なのに。

「シャーペンをノックすると芯が出るぅぅぅ!!!」って喜んでる人いたら、アホか右脳の人でしょ(笑)

 

そんなわけで、綺麗にカバーに収まった変態をいろんな角度から眺めて少しだけ悦に入ったり、ページをパラパラとめくってみたり、人生初のブックカバー(交換品)を堪能しているうちに再度のおっぱいを含め読み終わっていた。2時間くらいかな。

おっぱいを読んだ時点で、このままくだらない話だったら途中で読むのやめるかもなーなんて思ってた。

実際内容的には下品でくだらない中に何かを見つける(見つけて)的なコラムだったのだが、面白かった。コラムなんて下品なくらいでちょうどいいのだ。

しかし連載コラムなのに連載中に星野さんにいろんな事がありすぎたようで後半は自伝?小説みたいになっちゃって、最後の方なんかは星野さんの成長?に感銘を受けたりした。

 

読むまで知らなかったけど音楽家、役者だったんですね。

共感できることも多くて、アレンジャーの話は、ほんとそうだよなーって思うし、

カバーアルバムについての意見なんかは全くもってその通りで、

 

楽だからか、それとも楽しいからか、売れるからか、最近は若いアーティストもカバーアルバムをよく出している。自身で作詞や作曲を行わない歌手の方ならわかるが、オリジナルを作り出してなんぼのシンガーソングライターやバンドが、産みの苦しみのないカバー作品を出すというのはどんな気持ちなんだろう。

 

ホントそれ思うよ。そんで歌手についても言いたい事あるよ。

母親の車でかかってた女性歌手が昭和〜平成の名曲をカバーしたアルバム。

正直ドン引きするくらい酷い出来で、自分を下げるようなアルバムをよく出せるなぁと。

ポケットビスケッ○を聴いた時のような嫌悪感を覚えた。

個人的な意見だけど、カバーを出す人は原曲を超えたという自信が無い限りリリースしない方が無難では無いだろうか?

あと歌が下手なのにカバーとかしない方が、、、

アイドル関係は目的が別としても。

美空ひばり加藤登紀子尾崎豊中森明菜徳永英明小田和正宇多田ヒカル中島みゆき小沢健二松任谷由美。俺の思うすげーなこの人というソロ歌手を何人かあげてみた。

鮮明に思い起こされる感情がある歌声だったら歌い方だったり。

最強のASKA忘れてた(笑)

そのまま何故かマッキーも連想されて、嗚呼、彼もそうだ(色んな意味で)と気づいてニヤけた。

現代日本において"歌手"って絶滅危惧種なのかな。

 

とまぁ、音楽の話になると多少どころか相当熱くなってしまうので、話を変態に戻すとして、

いくつか良い言葉があったので、メモ。

生きた証や実感というものは、その人の外的行動の多さに比例するのではなく、胸の中にある心の振り子の振り幅の大きさに比例するのだ。

良いこと言うね。自分が感動する事が大事って事だよね。わかる。

 

それと、あとがきの後にある文庫化に際してのあとがきも面白かった。

「もうどうにもならない」「世の中は良い感じになどならない」。どんなに頑張ってもこの世は馬鹿なままだし、最悪になっていく一方だよ。例えば昔の自分にそう言っても、きっちり「いや、そんなことはない」と言うでしょう。そこが彼のとても良いところだなと思います。

もうそのような気持ちでいることはできませんが、私は知っています。世間を面白くするには、世間を面白くしようとするのではなく、ただ自分が面白いと思うことを黙々とやっていくしかないのだと。 

同感。 

星野さん良いね。ひとつ悟ってるね。

俺も思うんだよね、俺が生きている間には世界は良くならない。って。

そりゃ良くなったら良いなとは思う、そもそも99%以上の人がそう思ってるはず。

ただ、俺の残りの人生でそれを実感することは無いんじゃないかな。

昔はね、あの首相が変わればとか、3.11の震災をキッカケに大衆が運動を起こして、とか、三宅洋平が当選すれば、、、と完璧な他力本願なのに日本は良くなるかも!って結構期待してた。アホだ。

 

ただ、自分の周りだけは良くする事は出来るんじゃないかな?とは思って生きてる。

(”良くする”って言葉も難しいんだけどさ、人生を楽しくするに近いニュアンス)

胡散臭いスピリチュアル系の人達が世界を良くするために同時に瞑想をとか、署名をとか、たまに見るけど、本気で世界を良くしたいならまず政治家になれよ、って思うね。

(瞑想と署名を悪く言っているわけでは無い)

日本で大衆から世間が良くなることって無い、良くしたいなら上に行くしかない。

※去年のチリみたいに不正のなさそうな国民投票が出来る国であれば話は違うが。

 

伊坂さんの小説でうろ覚えだけど、ある男が総理大臣に立候補して、日本を良くできなければテレビの前で切腹します。と発言して、世間で話題になり本当に切腹するのかよ?と面白半分で投票した人が超多くて、当選。

秘書が持っている秘密の能力を利用して日本が素敵な国になった。と言う話があるが、それくらいの気概でやらないと無理でしょうし、秘密能力を持ってる秘書も居ないので実際はスゲー大変。

三宅洋平山田太郎も無理だったんだよ。彼等より能力的に劣ってて、勉強もしてない人が何言っても無理(笑)

 

またしてもの乱文で趣旨が全くわからなくなってしまったが、

本の感想と、何かをするときに形から入るのは悪いことじゃ無いよねー。って事が言いたかったんだと思う。

形からでも入ってしまえば何か得るものがあるんじゃ無いかな?

 

タイトルが良いよね、よみがえる変態。

ちなみに

人間よりも長い歴史を持つ動物たちを「普通」としたら、服を着て着飾ったり、向かい合ってセックスする事を正常位とする人間はもうフェティッシュの固まりだし、みな変態です。 

つまり「変態である事、それはすなわち普通の人間である証明」なのだと思います。

 だそうですよ(笑)

普通と変態を分ける物差しが哺乳類。ほんと変態だわ。

卵?

22/01/2021

帰国後に最初に感じたのは卵の不味さだった。

空港へ母親が迎えに来てくれ自家用車で地元へ帰る。

※ニュース等で空港から公共交通機関を使って帰ることは出来ませんと言われているが、空港を出た後の管理など出来るわけもなく実際はザルでした。

確かに"空港内"は通路も限定され、抗体検査が終わるまで空港外に出れないのだが、抗体検査で陰性が証明されれば誰でもタクシーで最寄りの駅まで行けちゃうし、空港を出た後歓楽街へ行こうが、自宅で引きこもろうが個人の自由になっています。

空港の出口にタクシーが並んでいるような光景は無いが、迎えのなさそうな人が出てくると、どこからともなくタクシーがやってくる。

ジョージアなんかは入国者は一旦全員ホテルで2週間隔離。これぐらいやってこそ「対策してます」と言えると思うんだが、流石の日本政府は対策してますってニュースで流れれば充分なんですよね。

嗚呼、今年も春節が怖いですね(笑)

 

話がそれた。

 

迎えに来てくれた母親がおにぎりとゆで卵を持参してくれていた。

17時間フライトの機内食は、簡素な紙パックに入ったサンドイッチとマフィンとりんごジュースと水×2回。

ベーグルにハムとチーズとトマトが挟まった小さなサンドイッチ。

行きも同じだったので、特にマイナスな感想は無し、期待もしてないので腹もそんなに減らなかった。

 

助手席に座っておにぎりを食べる、"親の作るおにぎりが最強に美味い説”は大多数の人が知るところ。猛烈に美味かった。

おかずはアルミホイルに包まれたゆで卵、これも定番。

卵料理ではゆで卵と目玉焼きが好きだ。

イタリアで卵が美味すぎて、卵料理=卵かけご飯になっていたので久しぶりの火が通った卵。

おにぎり同様に美味いと思って食べたのだが、猛烈に不味くてビックリした。

今までと同じ卵なのか確認するが、いつも通りスーパーで買った卵。

卵の味よりも、なんかうまく言えない変な味が強い。とても嫌味に満ちていた。

 

帰宅後確認のため、同じ卵を卵かけご飯で食べてみる。

ゆで卵のように強い嫌味は無いものの、俺は卵の美味さを感じられなくなっていた。

イタリアの卵は本当に美味かったんだなぁと実感しつつ、今後の自分の卵ライフについて深く考えさせられた。

卵大好きだからね。

ちなみにイタリアで食べてた卵は味が濃いとか旨味がすごいとか、そういうんじゃなくて、ピュアな感じがしたね。サラッと美味い。

 ピュアなものより過剰な味付けを好む現代日本人には本当に美味いものは理解しづらいと思う。

例えば自分が子供の頃から大好きだった不思議な味の塩"アジシオ"(今は使わないが)と、ヒマラヤの岩塩や赤穂の天塩。食べ比べた時に心の底から岩塩が美味いと言える人がどれだけいるのだろうか?そういう部分の美味い、まずいの感覚が削ぎ落とされてしまっている。

むしろ感覚が化学物質や周りの意見でコーティングされてしまって、素で感じることが出来なくなっていやしないだろうか?

 

以前にも書いた気がするが、"素材の美味さ"についてイタリアで学んだ気がする。

例えばトマト。

素材の味が美味いトマト。つまり美味いトマトとは何なのか?という話だ。

厳選された有機肥料のみで育て、研究や配合を重ねて糖度マックス、形も色も絵に描いたようなトマト。これが日本でいう素材の味が美味いトマト。

素材自体をブーストさせて、能力をカンストさせたようなトマト。

一方ヨーロッパで美味いトマトというと、そこらの空き地で肥料もやらずに日光と雨だけで勝手に育ったトマト(そりゃ日照りが続けば水くらいはあげるだろうが)。

色も真っ赤じゃなかったりまだ青みが残ってたり。

形も全て違う。これが美味いトマト。

素材の味=人間が手を加えてない。これが当たり前の世界だった。

 

素材という言葉の意味は、もとになる材料や原料。

そういう意味ではどちらのトマトも素材の味が美味いって事で間違い無いのだが、トマトの本来の味という視点から見ると、日本のトマトは確実に本来の味から遠ざかっていると思う。

 

それじゃあ、そもそもトマトの素材って何だ?と思ってしまったので蛇足を続ける羽目になるのだが、

そもそも野菜の素材は種。それに土、水、日光、空気が上手いことやってくれるのでトマトが出来る。(表現はこれで合ってるのか?笑)

品種改良出来ました!ウチのトマトの種は大きくなるし甘くなるよ!

品種改良は別に良いんだけど、改良する方向がビジネス思考。

もちろんわかってます。現代社会では金が大事。そりゃビジネス出来るように品種改良するさ。

ただ現代風の品種改良によって野菜の栄養価は低下している事をご存知なのだろうか?

f:id:takuya-joint:20210122222328j:plain

これは聞いた話なのだが、ピーマンなんで今ではほとんど栄養無いらしいですよ。

これってまじで現代日本っぽくて笑える。上っ面だけで実質が見えてない。

野菜を食べて健康な食生活、とかいうステレオタイプを信じ続ける人々。

コンビニのサラダを買って健康に気をつけていると言い張る人たち。

アホさに笑える。

健康に気をつけているはずなのに、素材の"味”しか気にしていない。野菜に栄養があると思い込んでいる。

トマトは甘いものが良いものだと信じ込んで、そもそもトマトってそこまで甘い野菜じゃ無いんじゃ無い?というところまでは思考は進行しない。

 

ぶっちゃけイタリア行ってなければ素材という事についてここまで深く考えたりしてないのだが、実際行って食べて来てるからリアルなんだよね。

日本ってここまで変なもの食べてるのか?と。

有機農産物JAS規格】(JASの言うオーガニック)

「農業の自然循環機能の維持増進を図るため」

「農業生産に由来する環境への負荷をできる限り低減した栽培管理方法を」

そっか、JASのオーガニックって人間はとりあえず後回しらしいね。

そんでJASの認証が取れないと商品にオーガニックって使っちゃダメらしいね。

 

スーパーに売られているオーガニック商品よりも"オーガニック"してる大規模じゃ無い農家って沢山あると思うんだよね。なんせ農家さんは自分で作った野菜食べる事が多いから、自分が食べるものって意識で作ってる人多いはず。

そう言う農家を見つける事が良い食生活の基本になってきそうな気がする。

幸い自分には農家の友達が何人かいるのだが、やはり売り物と自分たちが食べるものは別で作っている人が多い。

 

そんな事を考えているとシードバンクの重要性が超わかる。在来種大事だ。

ここから種について書き始めると、本格的に蛇足になりそうなので割愛しつつ卵の話題に戻る。

 

卵は殻で覆われているので、産み落とされた卵自体に味をつけたり、手を入れることは難しいと思う。

当たり前だが、鶏が食べる餌が卵の味を決めているのだ。

どこの国だって養鶏場では専用の大量の飼料が使われているはずだが、その飼料の質が卵にもろに影響するわけだ。

 

大量生産の養鶏場が質の高い飼料を使っている気はしないですよね。

やはり現代日本の食品は大量生産で、安かろう悪かろうになっていると思う。

みんなも時には美味しい栄養のあるものを食べてください。

 

とりあえず俺は日本で美味しい卵を見つける。このままでは大好きなゆで卵が美味しく食べれない。

 

個人的だが、モノを味わって食べるときに大事なことの1つが"目をつぶって食べる事"

あまりやっている人がいなくて不思議なのだが、何をするにしても同時に2つの事に集中出来ないように人間は作られていると思う。

テレビを見ながらご飯を食べる。これが最悪なんです。

五感の中でも視覚は物凄い処理能力を必要としてて、目を開けてるだけで脳のパワーをすげえ使ってる。

もちろん料理に見た目が大事な事もわかっているので、目で見て楽しみ、口に入れたら少し目をつぶって咀嚼する。これが良い食べ方だと思う。

意識的にやってない人は次の食事で試してみると良い。味も食感もより深く認識できる。やり方も目を瞑るだけなので超簡単。

 

本当はこのまま五感について書きなぐりたいと考えていたのだが、トマトの蛇足で随分長くなってしまったので、五感の話はまたの機会に。